昭和44年06月24日 夜の御理解
朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有り難さと言う風に教えて下さるんですが、もう文字通りもう今の合楽はその通りです。もう朝から晩の休ませて頂くまで、本当にお使い回しを頂いておる訳ですけれども、大事な事はそのう夜の有り難さと言うこと。例えばこうやって、まぁ祈りに明け暮れさせて頂く訳ですけれども、そのう夜の御祈念というこれはもう私自身がそれを感じておる訳ですが、ただそのう勤業いわゆるお勤めに終わってはならないということ、本当にあのう今日一日のまぁ有り難さと言うものが、夜の御祈念には取分け込められた、本当に心の底から有り難うございますが言えれる、御祈念であるたいとややもするとそれがお勤めになってしまうのですから、それもそこに生きた神様は私共は頂いておると、そういう実感が夜の御祈念、取分け夜の有り難さと言う様にならなきゃならんと思うですね。
今日は安藤さんの所の、もう二ぁつで亡くなられた、それがもうおられるなら30位なられるんですかね。二十言わば七年目に初めてその御霊様のお祭りをして、もう最近しきりにそのご主人の方がね、あれの御霊様のお祭りをして貰いたい、して貰いたいちゅうてその言われるんだそうですけれども、この前の日曜にあんなにして一家中で日曜にお参りがあります、もうそん時にゃ何かもうここで、それこそ涙流してあの先生どうかひとつ御霊様のお祭りをして下さいち言われるんですよ。
そりゃ良い事に気が付かれましたね、そりゃなるほどここでお祭りしておりゃ、朝晩まぁ拝ませても頂くし、だけれども本当に肉親の親からのねんごろなお祭りを受けられると言う事が、いわゆる初めてなんというなら、それはあの参らなでけんというて、今日はまぁほんな内々ではありましたけれども、それこそ思いをそこに結集してと言う様な思いでのね、お祭りがございました。3時からだったんです。ところが丁度まだ準備も出来ておりませんでしたが、私が丁度3時頃からお腹がせきだしてから。
頭がこうガンガンしてですね、これはもうお祭りが仕えられるじゃろうか、しかもそんなにもあの次から次と、まぁ便所に行くんです。そのお便所で金光様これはもう時間が来たのにと思うて、一生懸命こう腹を押さえながらですね、あのう神様にお願いをさせて頂いておりましたらね、あのう便所の中で御理解を頂くんです、あの例えばあの電気工夫さん達がね、生の電気をあつかえるようにならなければ一人前じゃないと言われたね。いわゆる素人が扱ったらもうビリビリそのうくるような電気をですね。
それを扱えるようになった時、初めて電工さんが一人前だと言われる位。だから間違うとやはり感電死する訳ですね。いわばあのうお取次ぎをさせて頂く例えばなら私がです、なら生きたそこに神様とか生きた御霊様を扱えなくてはね、一人前じゃないんだと言う様な事を頂いてから、本当にあの人が助かる事さえ出来ればよいという、まぁ一念でございますけれども、なるほどこれは御霊様のお祭りなどよくさせて頂くたんびに、それを思うんですけれども。
本当にあのここ二十何年ぶりの御霊様が、その本当の喜びに触れられると言う事ですね。そういうお祭りですから、いわばそういう助かりをなさるのですから、私のお取次ぎによって。ですから本当にそこに御霊様の助かりとか喜び、また遺族の者の真心と言った様なものが、真心そしてお取次ぎの生きた働き、生きた神様のおかげをですね、御霊様が受ける為にもそいういう働きがあっているんだなと分からせて頂いて、まぁ時間が来たから、あのうまぁいうならやっとかっとお広前へ出らせて頂いて。
あのう神様の前にお届けの御祈念に出らせて頂くもう同時に、本当に同時と言うていい位にですね、あのう痛みが止まってから元気が出て、とてもこげな模様ならご直会だんとても頂けんと思いよったのが、ご直会も大変ないろいろおご馳走して下さいましたが、もう、まぁ結構頂かせてもらえると言う様にですね、もうおかげ頂いたんですが。私そん時思いましたですね。この痛いとか痒いということはもう絶対、この神様の自由自在だということですよ。これはもう私いつもそれを感じるんです。
例えていうなら27年前にだから私は「あの久富先生、今日の御霊はだいたいどげなこつで死んだっじゃかのうや」「さぁ頭かなんかち言よんなさったですよ」ち言われますもん。それから終わってから今の話をさせて頂いたら、その安東さんが言われんです。実は私の方の子供はね、もうお腹がせき殺すようにして死んだんだそうです。そしてそれがとうとう頭に来てですね、頭がどうかなってなんとかちいうておられましたが、そして亡くなった。その症状が私のここへ現れとる。
そういう例えば苦しみの御霊が、例えば私がスキッとしたように御霊様としてもおかげを受けておられる。だからこれはなら私の上に痛い痒いが取ったり、外したりするのではなくて、お互いがです様々な病気、様々なそのう状態にある訳ですけれども、それはもう絶対神様のご都合ですよ。ですから神様がそれを治して下さろうとすりゃ、こう取って抜けるように大体は取って除けられるようなものですけれども、そこんところへですね、私共の本当の信心を求め給う、神様のご都合を知らん訳にゃいけません。
そんな事で苦しんでおるならば。それを神様がとって下さい楽にして下さいだけではいけない。そういう力働きはもってござってもね。そこに例えばそのことが分からせてもらうそこからですね、私共がそこの信心を分からせてもろうて、神様の御神意を分からせてもろうて、おかげを受けさせてもらう、なるほどこの神様は痛い痒い、人間の幸不幸の鍵を握ってござるなという事を、まぁ度々の場合に感じさせてもらいます。
そういういわば生きた神様の働きを日にち頂いておる。ところがこっちもやっぱり生身をもっておりますからですね、そういう働きを頂きながら、やはりきつかったり眠かったりするんですけれどもね、そういう中ででもそういう神様の生きたご守護、お守りにあるんだということを、その思いを集めていわゆる夜の御祈念というものがなされなけりゃならん。本当に不行き届きの事でございましたけれども、
今日一日お粗末御無礼の一日でございましたけれども、まぁおかげで朝のすがしさから、昼の忙しさについで、おかげを頂かせてもらい。今日只今こうしておかげを頂きまして、有り難うございますという喜びがね、神様の前に捧げられると言う様な、私は日にちでなかなければいけないという風に思いました。同時に、今日の御霊様のお祭をさせて頂いてですたいね、本当にもう生きた神様の働きというかね。
遺族のものの真心と生きた取次ぎと、神様の働きがですその様な働きになって、もう本当にお参りされた者みんなが、はぁ本当にもうとにかくなんというでしょうか、もうこげなお祭なら幾らお金をかけたっちゃ良かですね、と言う様なお祭りでしたね。これだけ例えば御霊様が喜んで下さる、その様というかそれがこちらに感じられるとするならですね、ほんなこついくらお金を掛けたっちゃ良かですね、と言った様なお祭りでしたね。
どうぞ。